読書をする場所

 今月の初めあたりに一週間に一冊本を読み切るという目標を立てたのだが、現状あまりうまくいっていない。読みたい本はたくさんあり読もうとするのだが、長時間読み続けられずネットサーフィンを始めるか寝るかしてしまう。

 以前は登校中に電車内で本を読んでいたがまわりがスマホをいじっているからこそ自分が本を読むことで自分の優位性を保とうとすることができるのかもしれない。電子書籍なんてものがあるってのに、紙の本読む自分かっけぇ的な。としたらスタバで事務作業をする人に対して嫌悪感を持つこともあったが、それはちゃんちゃらおかしい話である。逆に自分はスタバにでも篭ったら集中できるタイプのかもしれない。

 

 文章を書くことの難しさを改めて痛感している。これから山のようにレポートを書かなければならないというのに。自分が集中できるような場所、方法を見つけていかないとなと思う。

明日こそは

 明日からまた一週間が始まる。今週行った授業を整理してみたところ諸外国語のサンスクリット語チェコ語だけであった。英語に行かず、専門の化学にも行かず、お前は何がしたいんだ?

 

 「朝 また目を開けて 生きてることを知る」。AIノンフィクションの『ファントムペイント』という曲の歌詞である。安直な共感は作者への不敬にあたるかもしれないが、あえてっここは安直な共感を示しておこうと思う。めっっっちゃ分かる。生きることへの執念があるわけではない。ただ生きているから生きている。むしろ生きていたくないと思う時の方が多いが、生きている。寝ていて自分の意識が無いところで死ぬことができるのならそれが一番だが現実はそんな甘くなく誰も自分を殺してくれないのである。この歌は全体を通して生きていることに対して、また生きているなかで感じる嫌な気持ち、満たされない感覚、それらの原因を遡って探しても見えてこないという悩みを表現しているのだと思っている。

 

 話とは関係ないがタイ語の文字かわええ…!!と最近思っている。東南アジアにも手をだそうかしたと考えているところだ。大学の勉強は進級できるレベルでとどめておいて言語の方面で尖っていけばいいのば何か見えてくるのではないかと最近思っている。まあ進級できるレベルがどれほどなのか今はまるで分からないのだが。

ムシズガリ

 ようやく前期の計画が決まった。履修はもちろん、授業の優先順位を決めて最悪の事態を避けるように行動する。第一に英語と実験を確実に取ること、第二に規定の数の単位をとること、第三に単位を捨てるなら午前の単位を捨てること。また最近ネットで時間を浪費する生活を送ってしまっているので週に一冊以上本を読みたいとも思っている。本の感想などを文章にできる力があった方がいいと思っているのでここに本の感想などを書いていく予定だ。

 学校に行きたいと思っていても、どうも行けない。今日も行けなかった。そんな自分が嫌いである。どうやって行くのかを考えていても多分うまくいかないというのは何となく分かってきた。要は何も考えずに学校に行けるような体にするのだ。悩む時にはすでに学校にいる。それでいいのだ。来週は教授との面談がある。面談の理由はまぎれもなく成績不振である。面談に関する教務からのメールには、このメールに返信しなかったら親に連絡するという旨まで書かれていて正直なところ行きたくない。が、もう後戻りはできない。考えていることをしっかり伝えてこようと思う。

 やるしか、ない。

 

見えない自決

 自分は大学に入る前予備校で浪人生活を送っていた。予備校までは地下鉄で通っていたのだが、同じ車両に乗っている人が暗い顔をしながらスマホに夢中になっているのを見ていると世の中はつまらないなあとか考えたり将来への不安みたいなのがどんどん溢れてきたりして憂鬱な気持ちになるのである。周囲の人が暗いことを考えていたのかは分からないが、自分にとっては周囲の人が暗いことを考えていたように見えたので自分も自殺の方法や巨大地震によって電車ごと押しつぶされる光景などの妄想をしていたのを覚えている。それもあり今でも都市部の地下鉄は苦手である。途中から地下鉄の中で読書をするようになった。回りの人がスマホをいじる中で自分だけ書籍を読んでいることに対する優越感が生きる気力を養ってくれることはもちろん、周囲からの視線があるおかげで(見られてなかったかもしれないが)読書に集中できることもメリットであった。その中で印象に残っているのが岡本太郎が書いた『自分の中に毒を持て』『自分の運命に楯を突け』『自分の中に孤独を抱け』の三部作である。

 

 岡本太郎は1970年の大阪万博太陽の塔の建設を提案した人物であるが、自分はそのエピソードが大好きなのだ。当時、万博は開催に反対する人もいて(今も変わってない・・・)岡本太郎も万博の理念に対しては『人類の進歩と調和』というスローガンに対し懐疑的な見方を示していた。太郎は現代よりも縄文時代の人間の方が人間として生きていると考えていたため、むしろ進歩ではなく後退だと考えるほどであった。しかし太郎は万博のテーマに反する考え方を持っていながら万博の広場の設計に携わることになる。案の定ブーイングや太郎のスローガンである「自分を貫くこと」をやめて運営に屈っしたのではないかと失望するような声もあったが、そこでも太郎は自分を貫いていた。なんともともと予定されていた整然とした建造物の中央に天井をぶち破るような塔を建てることを提案し、その計画が本当に実現したのである。それが今の『太陽の塔』である。整っていて近代的な建造物の真ん中に時代にそぐわず呪術的にも見える塔が立っている光景は異様であっただろうし、万博が終わっても周囲の整った建造物は壊されても『太陽の塔』は住民の要望を受けて残されたのである。要するに太郎は万博の理念に反する考えを持っていたが、外野から反対をするのではなく反対の意思を示すためにその意思を万博内の建造物にこめたのである。現代は誰もが、また目立つ人ならなおさら匿名での批判、まして人格否定の対象になってしまうかもしれないような時代である。そう、まさに当時万博の開催を外野から批判していた人たちとそっくりなのである。だからこそ太郎が今生きていたのならどんな行動を起こすのかたまに気になるのである。

 

 三部作の話に戻るが、ここには面白いほどに自分に刺さる言葉がたくさん書かれている。なかでも僧侶に講演を行った時の発言である、

出逢うのは己自身なのです。自分自身に対面する。そうしたら、己を殺せ」

という言葉が好きだ。仏教の教えの中にある「道で仏に逢えば、仏を殺せ」という言葉を受けての太郎の発言であるが、これは今の自分に対する戒めとして120点レベルの優れた言葉だと思う。現在学校に行かず引きこもりがちな自分は大学に行くのを拒む自分と出会っているところである。そこでそんな自分を殺す。単純な話であり、またスケールは小さいがそれができるだけで自分にいろいろな可能性が生まれてくるのである。結局思想よりも行動である。

 

今日は久しぶりに岡本太郎を思い出して奮い立っていた。もう少し頑張ろうと思った。

自由と自己責任

 カンザキイオリさんの『自由に捕らわれる』という曲をご存知だろうか。『命に嫌われている』で有名なカンザキイオリさんだが、自分はこの曲の方が好きである。平等や格差の是正を唱えながら自由が求められる矛盾した世の中で「自由」に翻弄されながらそれでも生き抜こうとする青年期の人間の心情を描いた曲である。

 大学は「人生の夏休み」と言われることがある。実際周囲の人からもいろいろ自由にやることができるのは、大学生の時までだと言われる。正直課題に追われてそこまで自由な感覚も無かったのだが…確かに基本的に授業の無い長期休みも1年で約4ヶ月あり、やりたいことがあるなら全力でそれに打ち込めるかもしれない。そう考えれば一般的な人生の中で他の時期に比べて相対的に自由度が高いのは確かだろう。そしてそんな大学を卒業するためには自由の中を上手に泳ぎきらないといけない。卒業要件を達成できず留年を繰り返す様は、まさしく「自由に捕らわれる」ことである。何度も書いていることだが自分には自由を泳ぎきる自信が無い。何回授業をさぼれば気が済むのだろうか。自由と自己責任は表裏一体である。授業をさぼるのは自由だが、その責任は全て自分に降りかかってくる。責任に潰されるてもまたそれは自己責任である。明るい未来など全く見えない。

 

 こんな文がただの言い訳であることは分かっている、現状学期のスタートがうまくいっていないのは事実である。どうにかしなければ…留年である。

まずいですよ!

 4月も折り返し、散った桜の花びらが地面に落ちているのをちらほら見かける・・・あーあーああー・・・

・・・あ?

 

さも当然かのように授業時間に家で寝ているのはなんだ?なぜこうも身が入らないのだ?なぜこうも授業を切ったことに対する罪悪感がないのだ?計画的なさぼりでも無く、ただたださぼるのは留年への最短経路であるというのに。

 

 

なにより留年した未来のことを考えても何も焦りが出てこないのはなぜだ???

 

 

今日やった勉強と言える行為がNHKラジオのアラビア語講座を聞いたことだけなのだが、まるで授業に関係ない科目なのだが、、、。

 

御託を並べずにただ学校に行け。学校に行け。

 

そう言われると行きたく無くなるんだよ、クソが

 

何か、何か進捗を作らなければという焦りは有るような無いような

 

いくら勉強していなくても自分の頭が悪くなっていっているのは分かる。課題をやらないのだから。授業の資料すら見ていないのだから。

 

人に会いたくない。それは確実にある。ただそれだけで大学に行くことを、親に迷惑をかけないことを、しないようになるのは極端すぎる。もはや普通がわからない。何で他の人は学校に行けるのか?すごいな!君!お前ら!あなたがた!みんな!すごいよ!

 

もとは学校に行かない時は夢の中に住んでいたのだが、夢の世界も時期によって住み心地が悪くなることがある。今はちょうど住み心地が悪い時期だ。緊急地震速報が日本全国に出て、各地で震度5以上と表記されている日本地図が目の前に出てきたり、腕が太くなった映画泥棒が踊りながら追っかけてきて追いつかれた時に目がさめた時は本当に気持ちが悪くなる。

 

これが腐った自分の姿かと悲しくなる。たすけてほしい。

ポリグロット0年生

 学生時代の目標として多くの言語を話せるようになるということがある。いろんな言語を話せる人に対して憧れがある。実際にポリグロット(多言語話者)であった種田輝豊さんの『20ヶ国語ペラペラ』は愛読書である。また言語関連のエッセイはよく読んでいる。現状としてはいろいろな参考書類は持っているのだがどれも軽く触れたぐらいで本腰を入れて勉強したものがないというのが問題である。第二外国語として勉強しているのがフランス語で、一応本として持っているのはアラビア語サンスクリット語ラテン語、古典ギリシャ語、チェコ語、ドイツ語、ノルウェー語、フィンランド語、ポルトガル語などである。種田さんの本に書かれている方法を真似するなりして今年中にある程度全体的なレベルを上げたいと思っている。正直今一番やる気がある科目は諸外国語だと言っても過言ではないと思う。

 英語をないがしろにしていることは何か問題があるのだろうか。自分は英語に対するモチベーションが全く無い。どれほどかというと必修の英語の授業に全く出席せずに単位を落とすほどである。もともと諸外国語がよくできて英語はあまりできない人は土台の無いピラミッドのような、筋トレをせずにプロテインだけ飲み続けるような、どこか土台の欠けたような感覚があったが、実際そこまで気にすることでは無いのかもしれないと考え始めている。後述するように日本以外の人とコミュニケーションをとれるようになりたいという気持ちえ諸外国語の勉強に惹かれているわけではないのだから(単位を取らないと卒業できないのでそこは英語を頑張らないといけないが)。

 現在の問題点としてはゴールが明確ではないということがある。外国語を勉強する理由はいろいろあるだろうが、結局日本以外の人と意思疎通する道具として勉強する人が多いのでは無いだろうか。大人向けの英語の語学学校などもビジネス用の英語の学習と銘打って開講しているところも多い。自分には話したいという気持ちがあるわけでもない。自分にとって外国語の学習が魅力的なのは自分がかっこいいなと思う人がそんな人だからとか自分を遠くの場所に連れていってくれる感覚がするからとかなど抽象的である。こんな状態で長続きするのかとても不安である。

 おそらく言語に関して文を書くことは増えていくと思うので、面白く、興味深い内容が書けるようになりたい。言語に関して言語化できないならそれは何のための言語なのだろうか、ということだ。