何者

 今日は比較的気持ちが安定していた。家の中で生きてることを恨んだ回数も少なめであった。しかし気持ちが安定しててもそれはそれでつまらないなと思ったりもする。生きるのを恨んで発狂する感覚や自転車でペダルをこぐたびにポンプみたいに涙が溢れてくるあの感覚が恋しかったりする。もはや悲壮感の奴隷である。これだから多分世界がユートピアを描いたSFのような世界になっても馴染むことを拒否すると思う。今の自分には生きる力は無いかもしれないが、生きることに抗いながら生きる力はあると思っている。現在大学のカウンセリングにはお世話になっているのだが、この正確ゆえ少し気持ち悪い感じがする。悩みを解消したいというよりもいかに絶望的かを分かってもらい労ってもらうところだけに焦点があるような。いかに自分が大変なことをしているかを示して他の人から「大変だねー」って言ってもらうためだけにやたらと単位を取る人間やいかに自分が頭良いか見せるために家の本棚の目立つところに学術書や洋書を並べる人間と同じである。まーどちらも思い当たる節があるんだけど。

 

 たまにこう文を書き連ねる自分を朝井リョウさんの『何者』の主人公と重ねることがある。その主人公もツイッターのいわゆる裏垢において、ひねくれた見方で身の回りのこと出来事や人を評価した文を「何者」というアカウント名で公開していた。最終的には就活や人間関係で苦労している様子が少し描かれて終わる。最後の方は説教臭い感じがあるが、新潮文庫の本を紹介する小さな冊子にも展開が衝撃的な本として紹介されていて自分のような刺さる人にはとことん刺さる。こんな稚拙な文を書き連ねて「自分は何者だ〜」みたいなことをやっている自分のことをたまに不安になる。

 

 衝撃的な展開の本でも書けたらいいのかな

生活が崩れ始めた日

 大学に入ったばかりの頃は大学生は勉強するものだと思っていた。少なくとも1日10時間以上ベッドにこもり、まともに授業に行かず、留年すれすれまで追い詰められるようになるとは頭の片隅にも無かったと思う。ゆるやかに生活習慣が悪くなっていったのは感じていたが、決定的に自分に変化が起きた日を覚えている。それは人は何日間シャワーを浴びずに生きていけるか調べようと思った日である。こう書くとバカバカしいように見えるがその前とその後では行動がまるで変わった。結果から言えば、「シャワーなんて浴びなくても生きていける」ということに気づいてしまったのだ。バイトでは服で体や頭が隠れるし、人と遊びに行くこともないので身だしなみに気を使う必要も無い。まず1日シャワーを浴びなくとも何ともなかった。3日ほど経ったら少し髪がカピカピになってきたぐらいで多少の不快感はあったがすぐ慣れたのでゆうに一週間シャワーを浴びずに生活できた。ただ何が問題かと言うと、生活のリズムが崩れるのである。大学がある日もない日も、食事、睡眠、シャワーはあるものでそれを組み合わせたパターンが1日の中で循環していくが、シャワーが欠けると食事と睡眠もおかしくなるのである。平気で1日10時間寝るようになるのはこのあたりからだった気がする。

 

 いろいろと極端すぎるのである。大学入学前は1日10時間勉強しようと思っていたのに今では10時間睡眠である。もちろん勉強はうまくいくはずがない。自己啓発本などを読んで意識が上がったと思ったらその夜「死にたい」と連呼する。

 

改善しなければなと思いながら、皮肉にも夜26:30にこの文を書いているのだ。自分でどうにかするしかない。

頭蓋骨にたかる蠅

 今日の朝に急遽予定が入ったのだが、前日寝ることができなかったため徹夜で1日を過ごすことになってしまった。正確には寝られないままある程度時間が過ぎてしまったため、もう寝たら起きれないと思い寝るのを諦めたのである。それももう少しで寝られそうなところでだらだらとスマホなりパソコンをいじってしまいなかなか寝付けないという完全に自業自得なパターンである。寝ないと決めた後は、近隣住民に文句を言われない程度の音量でアップテンポな曲をスピーカーから流しながら部屋の片付けをしたり(本来片付けにおいて敵である『昔読んでた本を見つけて懐かしくてつい読み込んでしまう』ことが目を覚まし続けるのに役立ったりする)、『東方輝針城』や『弾幕アマノジャク』などのまだ自分が完全にクリアできていないゲームの続きをしたりしてどうにか時間を浪費していた。大体3時から4時の間に眠気のピークが来るのだがその時は最終奥義である自慰行為でなんとか夜を延ばす。日が登ってくればもう徹夜成功は近い。今日は無事朝に入った予定も遅刻せずに行くことができて、学校にも遅刻することはなかった。ただ地獄はそれからであった。授業に行くことに対するストレスと早朝にリボビタンD、昼にZONEをがぶ飲みしたことによりカフェイン過多で体が悲鳴をあげていたのだ。今日行く授業は自分が再履修になってしまった実験の授業のガイダンスであり明らかに自分だけが浮いているような気がして怖かった。頭に中で常に何かが動き回りながら頭を食い荒らしていく感覚がした。強烈な眠気とともに胸部に断続的な痛みが走る。まっすぐ歩けない。

 

 結局元凶はスマホやパソコンをだらだらいじってしまう時間である。この習慣は本当にやめたい。もっと勉強の時間にあてられると思うし、生活習慣も狂う。なんなら1日あたりのスマホ利用時間の制限とかするべきなんじゃないかと思っている。

指が届かない

大学生の一つのセメスターは急坂の上に置かれたボールが転がっていくようだと思う。大学の特徴の一つ、もとい小中高と違う点の一つに始業式、終業式が行われないことがある。始業式のある日は学校が午前中に終わるから早く帰ることができ、そのことに喜んでいる人やその後遊びに行く人もいたような気がする。大学ではぬるぅぅっと新学期が始まる。全体で何か行事をやるわけでもお偉いさんの話を聞くわけでもない。最初の授業ではガイダンスが多く早く授業が終わるという意味では似たようなところはあるのかもしれないが、時計が決まった周期で一回転するように淡々と授業が行われていく。急坂の上に置かれたボールは後ろから指でツンと押しただけでどんどん加速していき制御ができなくなっていく。一度始まってしまえば止めることなどできず、流されるままに与えられたことをこなしていき夜を犠牲にしていく。よほど優秀な人や余裕を持っている人であればボールの制御がうまくでき、他の活動に精を出しながら課題をこなすこともできるのかもしれないが、そんな人は限られてくるだろう。

 

この例えを用いれば、小中高での始業式はボールを押すためのイベントで終業式はボールを止めるためのイベントである。みんな一斉に転がりだすし、一斉に止まる。大学にはボールを押すイベントが無い。多くの人は当然のように授業に行く。すなわちすでにボールが転がりだしている。自分はまだ十分に授業に行けていない。今日も今回落としたら留年が確定する授業の初回を欠席してしまった。進級に直接関係の無い科目の授業は行けたのだが。自分はいまだにボールを押せていないのだ。ボールを押すために何かセルフ始業式でも行うべきだったのだろうか。何かきっかけが欲しい。何かきっかけが欲しい。しかし世は自己責任の原理で回っている。結局自分の指でボールを押さなければならない。

 

もっと拡大すれば人生もボールのような物なのかもしれない。勾配は時によって変化するが、他人、政府、ましては菌類などの影響によって生活が思いもよらぬ方向へ変化していく可能性があり、完全に自分の思い通りに過ごすことなどできない。ただ今現在の自分の中のイメージでは大学というものがニュージーランドボールドウィン・ストリート(世界一急な坂)のように思えてしまう。指を触れるにも相当な勇気がいる。

 

文を書いてからある程度時間が経った後に文を見返すと、何こいつは厨二臭くかっこつけて自分を正当化しようとしているのか疑問に思うことがある。しかもそういう時は学校で授業を受け終わった直後だったりする。きっとこんなことを書いていることをしっかりと恥ずかしがることができるようになれば学校に行けるのだろう。そう考えるとちょっと希望が見えたかもしれない。

一寸先どころではない

以前落としてしまった実験の授業の再履修の登録をしていた。今回実験を落としたら、めでたく留年確定である。正直授業を受けきれる自信が無い。未来が怖くてしょうがないのである。どこぞのホストが書いた本に「先が分かってしまったら人生は面白くないじゃないか」みたいなことが書いてあったがそんなこと言われて元気が出るほど自分はまっすぐな心を持っていないの。ごめんなさい。

 

誰かに悩みを聞いてもらいたい。だったら悩みを聞いてくれる友達、あるいは精神科、カウンセリングなどを利用すればいい。ただ相手から自分に対してアドバイスをくれたとしてもそれを受け入れるだけの心の器がない。分かりやすく言えば内なるプライドがそれを許さないのである。だから相手から何を言われるか考えて先に潰しておくために自分で自分の欠点を笑いながら言っていく。はたから見たら気持ち悪い奴だってことは分かっていても毎回そうなってしまうのだ。

 

何もかも恐れているこの感じはいわゆる『弱者男性』というものなのだろうか。

絶望しかない

起きたら13:20過ぎ、もう3限が始まっている。学校に行くのを諦め、スマホ見たりぼけーーーーっとしたりしたあと以前から読もうと思っていた『山月記』を読む。短編なのですぐ読み終わる。なんか思い当たる節がありすぎて心にずしっと来る。「尊大な羞恥心」や「臆病な自尊心」などのフレーズも刺さったが、李徴の自嘲癖が妙にリアルで自分と似たようなところを感じてしまうこともまた刺さる。自嘲は自分の欠点を他人に言われるのが怖いからそれを避けるために、あらかじめ自分で自分の欠点を白状する行為である。他人に欠点を言われる程度で傷つけられるほどの自尊心を持っていることの証明である。自分も相手に笑ってもらうために自嘲をすることが多々ある。それも初対面の人に対しても、である。ある程度気が知れた友達ならば、多少の自嘲は笑い話としてあるだろうが、初対面の相手に対して自嘲をしても相手から距離を置かれるだけである。確かに恐怖心は無くなるかもしれないが、話の節々に自嘲を入れられてはそんな人と話をしていても楽しくないだろう。ただ自嘲癖は直そうと思ってもなかなか直らないがまた癖者なのである。

自分はとある大学の人間であり、絶賛留年の危機である。あまり大学に行っておらず大学で生きていないのだから自分のことを「大学生」と形容するのは適切ではないだろう。今日4/8は前期の初日であった。3限だけ授業があったのだが寝坊してしまった。前日は27時に寝たのだからさすがに起きれると思っていたが、しっかり10時間夢の世界に行っていた。行かなければ行かないほど行きづらくなるのだから行かなければならないと何度も言い聞かせてきたが、学校に行くことを考えると気分が滅入ってしまうのだ。目立った嫌がらせを受けているわけではないが、なんか怖いのである。もっと学校に行くために自分の気持ちの機微をこれからもっと考えていかないといけないなと考えているところである。

理由も目標も無いけれど、とりあえず毎日なんかしらを書き残す予定である。以前ブログ的なものに挑戦した時は一週間ほどで続かなくなった。今回は何日続くのか。おそらく落ちの無い話が中心になると思うが、時間潰しとして、またその程度のものとして見て欲しい(←自嘲癖の片鱗である。(←こんなこと書くこと自体が自嘲癖の片鱗である))。