指が届かない

大学生の一つのセメスターは急坂の上に置かれたボールが転がっていくようだと思う。大学の特徴の一つ、もとい小中高と違う点の一つに始業式、終業式が行われないことがある。始業式のある日は学校が午前中に終わるから早く帰ることができ、そのことに喜んでいる人やその後遊びに行く人もいたような気がする。大学ではぬるぅぅっと新学期が始まる。全体で何か行事をやるわけでもお偉いさんの話を聞くわけでもない。最初の授業ではガイダンスが多く早く授業が終わるという意味では似たようなところはあるのかもしれないが、時計が決まった周期で一回転するように淡々と授業が行われていく。急坂の上に置かれたボールは後ろから指でツンと押しただけでどんどん加速していき制御ができなくなっていく。一度始まってしまえば止めることなどできず、流されるままに与えられたことをこなしていき夜を犠牲にしていく。よほど優秀な人や余裕を持っている人であればボールの制御がうまくでき、他の活動に精を出しながら課題をこなすこともできるのかもしれないが、そんな人は限られてくるだろう。

 

この例えを用いれば、小中高での始業式はボールを押すためのイベントで終業式はボールを止めるためのイベントである。みんな一斉に転がりだすし、一斉に止まる。大学にはボールを押すイベントが無い。多くの人は当然のように授業に行く。すなわちすでにボールが転がりだしている。自分はまだ十分に授業に行けていない。今日も今回落としたら留年が確定する授業の初回を欠席してしまった。進級に直接関係の無い科目の授業は行けたのだが。自分はいまだにボールを押せていないのだ。ボールを押すために何かセルフ始業式でも行うべきだったのだろうか。何かきっかけが欲しい。何かきっかけが欲しい。しかし世は自己責任の原理で回っている。結局自分の指でボールを押さなければならない。

 

もっと拡大すれば人生もボールのような物なのかもしれない。勾配は時によって変化するが、他人、政府、ましては菌類などの影響によって生活が思いもよらぬ方向へ変化していく可能性があり、完全に自分の思い通りに過ごすことなどできない。ただ今現在の自分の中のイメージでは大学というものがニュージーランドボールドウィン・ストリート(世界一急な坂)のように思えてしまう。指を触れるにも相当な勇気がいる。

 

文を書いてからある程度時間が経った後に文を見返すと、何こいつは厨二臭くかっこつけて自分を正当化しようとしているのか疑問に思うことがある。しかもそういう時は学校で授業を受け終わった直後だったりする。きっとこんなことを書いていることをしっかりと恥ずかしがることができるようになれば学校に行けるのだろう。そう考えるとちょっと希望が見えたかもしれない。